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◆服従と降参 そして、無関心と創造性

OSHOは言う。服従と降参はまるで違うものだと。

服従とは、何かに従って偽の自分を生きることだ。降参とは、その対象そのものが自分と溶け合ってしまうことだ。従っているのではない。その二つには大きな違いがある。

私はOSHOの言うことに従うのではない。彼の言葉は、私の中にずっとあったのに、それが言葉として表面に出てきていなかったものを掘り出してくれるのだ。だから私はOSHOに降参する。自分自身の理解に基づき、彼の言うことが自分の一部となってしまうのだ。

これから彼の講話から長々と引用するつもりだが、それは単に紹介するという類の引用ではなく、すでに私の一部として溶け込んでいるものとして伝えたいのだ。


===

私は無関心じゃない
無関心というのは否定的(ネガティブ)なものだ
それは自滅的だ
逃避屋だ
もちろん、もし無関心になったなら
多くのことがあなたを悩まさなくはなるだろう
あなたはあなたの無関心に取り巻かれて生きる
あなたは乱されまい
あなたは邪魔もされまい
たが、ただ乱されないということが重要なんじゃない
それでは、あなたはけっしてハッピーであふれんばかりにはなれまい

東洋では、たくさんの人が
無関心になることが宗教の道だと思っている
彼らは生から遠ざかり逃避屋になる
彼らは何ひとつ生み出していない
彼らはただ植物のように生き
それで自分たちは何かを達成しているのだと思っている
彼らは何も達成してやしない

達成というのはつねに積極的(ポジティブ)なものだ
そして、達成というのはつねに創造的なものだ
神は創造的だ
どうしてその神に無関心でいることによってたどり着ける?
彼は無関心じゃない
<彼>はたと小さな草の葉一枚にもこころづかいをする
<彼>は一匹の蝶を描くにも
一人のブッダを生み出すのと同じだけのこころづかいをする

<全体 Whole>は愛する
そして、もしあなたが<全体>と一つになりたかったら
あなたは愛さないわけにいかない
無関心というのは緩慢な自殺だ
深い愛の中にいなさい!
ん?あなたがあなたの愛の中に完全に消え失せてしまうしまうほど
あなたが純粋な創造エネルギーになりきってしまうほどにそうしなさい
そうしてはじめて
あなたは神に参加する
手に手を取って、あなたは彼とともに行く

私にとっては
創造性こそ祈りだ
創造性こそ瞑想だ
創造性こそ生命だ
だから、生を恐れないこと
そして、自分自身を無関心の中に閉ざさないこと
無関心はあなたの感度を鈍らせてしまうだろう
あなたはあらゆる感受性をなくしてしまうだろう
あんたのからだは鈍感になり
あなたの知性も鈍感になるだろう
あなたは薄暗い独房に住まう
光や太陽を恐れ
風や雲や海を恐れ
あらゆるものを恐れて-
自分の周りに無関心の毛布をぐるりと巻いて
あなたは死にはじめる

動きなさい
ダイナミックでいなさい!
そして、何をするにしても
まさにその行為そのものが創造的で神聖になるほどに
それを愛をこめてやるのだ
私は、あなた方がみんな
絵描きや詩人にならなければならないと言っているんじゃない
それは無理な相談だ
そして、その必要もない
あなたは家庭の主婦であるかもしれない
あなたの料理が創造的なものになり得る
あなたは靴屋であるかもしれない
あなたの靴づくりが創造的なものになり得る
あなたが何をやるにしても
それをできる限りトータルに
できる限り愛情こめて
できる限り親身になって
あなたの行為が何か外側のことでなくなるぐらいその中にはいり込んでやることだ
あなたが自分の行為の中にはいって行けば
あなたの行為はひとつの成就になる
そうしたら、私はあなたを宗教的と呼ぼう

宗教的な人
宗教的な意識というものは無限に創造的なのだ


===以上、『究極の旅-禅の十牛図を語る』より引用


これはOSHOの言葉でもあり、私の言葉でもある。なぜなら、私は彼に降参してしまったから。。。何かに、服従ではなく降参するとき、それら二つだったものの間からは二元性が消え、一体となって溶け合ってしまう。

私の中で、全てのものが「YES」になる時、私は全てのものと溶け合うことになるのだろう。

 

 


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