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◆決断恐怖症

OSHOの『究極の旅 禅の十牛図を語る』中に登場したこの「決断恐怖症」という名称、今までに私が「依存症」と呼んできたものと全く同じであるように感じた。

自分自身を生きるという責任を回避するために自立すること、独りになることを拒む人たち。全ての決断を他人に任せる。親の言うことや世論やドグマや知識人の言うことや一般常識や学校で習ったことなど、そうした既存の権威の言うことを「信じる(believe)」ことで追従する。

その追従は、決断恐怖症の人たちが自分自身を生きるということを妨げる。本物の個性を発揮することを妨げる。つまり、何かに追従して生きるということは、偽の人生を送り続けることにつながるのだ。

真に自分自身を生きたいのであれば、「信じる」のではダメだ。そのためには「信頼(trust)」が必要となる。自分自身の理解を通し、「信頼」を得、自らの責任で決断して生きていくのだ。

自分で決断をするとき、私たちはその決断がもたらすものに対して誰にも文句を言うことは出来ない。なぜなら自分が決断したのだから。逆に言えば、文句がある人というのは自分で自分を生きていないということだ。何かを誰かの所為にするのは、決断恐怖症にかかっている証拠である。

私たちは、いつでも好きな時に瞬間的に自由になれるはずなのに、そうしようとする人は少ない。なぜか?

それは、自由には責任あるいは危険が伴うからだ。それが怖いのだ。だから、いつまでも自分の人生を他人に委ね続けるのだ。自立(自律)した人間になるよりも群集の一人でいる方が心地よいと「信じて」いるのだ。

自分で生きることをせず、他人に人生を委ねたその結果がどういうものになるか、皆さんもすでに解っていることだろう。偽の人生を生き続けた結果が苦しみであり、病であり、死である。それらは本来は幻想なのにも関わらず、私たちが偽の人生という幻想の中に生きるから、それらが引き寄せられるのだ。

そうして、人は苦しみの中にやってきてはじめて考える。なぜ苦しいのか?それが偽の人生を送っていたせいだと気付けばラッキー。気付かない人たちは、死ぬまでその苦しみさえも他人の所為にし続ける。

全ての決断を人に委ね、その結果も人の所為にし、自分自身の生への探求をやめてしまうから死んでしまうのだ。未知を既知にするという探求をするために与えられた身体なのだから、それをやめてしまった人からは身体が取り上げられても仕方のないことだ。

生きたいのであれば「信じる」ことをやめること。OSHOは言う。「信用(belive)」は「信頼(trust)」の敵だ!と...。

生きるために「信頼」しよう。自分というものを「信頼」するのだ。そして、自分自身の理解を通し、自分で決断して生きていこう。それをしないのであれば、死に向かって進んでいくだけだ。それは「生きている」とは言いがたい。

自由であるということは、体験したことのない人からしてみれば怖いことかもしれない。でも、そう「信じて」いるだけだ。実際には、自由とは喜びと愛とで溢れた状態だ。そして、それが私たちの本来の状態なのである。幸せと健康は、自由に自分自身を生きてこそもたらされる状態なのだ。

 


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