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◆イマココの今って? |
私ってば、超勘違いしてたかも〜!? って、きっと多くの人が私と同じような認識だろうとも思うんですけどね。。。 イマココの「今」ってどこですか? 訪れるのが日課になっている、我が量子場調整アカデミーのHP。夕方、のぞきに行ってみたら、女神コース大先輩のアヤ先生の文章が…。 その中に岩尾先生の過去の日誌が紹介されていました。日誌のアーカイブは全部読んだはずだから、私も知ってる文章のはずと思ってクリック。。。 あらためて読んでみて、愕然としました === 現実はどうあれ自分の求めるものの思いを今に乗せる。それは未来に向かって種を蒔いたのに等しい。今の現実はその種が実を結んだ結果だとすると、その現実はもう既に過去になっている。 私たちはさまざまな問題や症状を持って右往左往している。それらは現実であるからだ。 しかし本当にそれは今の現実なのだろうか。 === ◆「[No.31]月と火星のランデブー」より引用 http:// 「いや〜ん!イマココの『今』って、現状じゃないんだわ〜!!」 「今」って、現状のことだとずっと思い込んでた。そして、そう思い込むことによって「イマココにいる」ことの大切さの意味が不明瞭になっていたんです。だって、私たちが創造主なのであれば、現状を観ていたのでは創造にならないじゃないかってね。常に現状の先に居つづけないと創造に成らないじゃないかって考えていたんです。その答えがすぐにそばにあったなんて…。 イマココの「今」とは、現状のことじゃない。創造のためにイメージを働かせている時こそが「今」なんです!じゃあ、現状とは何か?というと、いつだかの「今」の結果であって、言ってみれば「過去」なんです。 そう考えると、私達のイメージ(意志)が内なる神によってリアリティを与えられた結果が「今」であることは決してない。そのイメージ(意志)こそが「今」なのです。 「イマココに居続ける=意志をもって絶え間ない創造を続ける」 あぁ、やっとしっくりきた!だからイマココに居るためには、意識的で在りつづけなければならないのですね。意識出来なくなった時は、すぐさま現状を含む過去に囚われ、過去に基づいた創造しか出来なくなってしまうのです。 病気の人の中に美と健康を観るのは「今」しかできない。 戦争や飢えに覆われた世界に愛と光を観るのも「今」しかできない。 怒り狂った人の中に安らぎを観るのも「今」しかできない。 泣き叫ぶ子供の中に笑顔を観るのも「今」しかできない。 弛んだお腹に引き締まった肌を観るのも「今」しかできない。 それじゃあ、夕日を眺める時の「今」は? それは、観方によって「今」に居る人もいるし、現状をただ眺めているだけの人もいるんだと思うのです。過去とリンクさせて眺める人も居るかもしれません。 夕日の中の美しさを観ようという意志が働いて眺める人は「今」にいる人。美しさを感じるという状況を創造しているというか。。。現状をただ眺めている人は、夕日で心を動かされたりすることはない。過去の経験を持って眺める人は、「こんな夕日の中で振られたっけ…」なんて思いながら悲しくなったりする。。。 物理的に同じ地点に居ても、その人の意識の持ち方で生きている次元が異なるのかな、なんて思うわけです。 そう言ってしまうと、「今」に居る時だけでなく、現状を含む過去を観る時も意志がないとはいえないのかもしれませんね。やっぱり、何を観るかは、いつでも私達の自由意志に任されているってこと♪ 弛んだお腹を眺める時に、引き締まったイメージをしてその現実を起こすのか、現状認識だけして現状維持でいくのか、悲嘆に暮れ老けた自分にフォーカスしてそれを推し進めるのか? あ、ちなみに私のお腹は、量子場調整のおかげで腹筋割れてきましたよ 肌も水をはじくようなツヤが戻ってきたし♪特に膝や肩はピカピカ光ってます というわけで、量子場調整こそが、イマココで行う技なんだとより一層認識を深めましたとさ ◆「健康って?」アヤ先生の日記 http:// ◆白雲の道治療院 http:// === 湯船に浸かっていたら、こんな話を思い出しました。 岩尾先生がイメージによる現実化(創造)の話をする時にこんなような例えを挙げてくれたことがありました。 「コーヒーが口の中にいきなり入ってるってことありますか?ありませんよね?コーヒーを飲もうと意図して(イメージして)、カップに手を伸ばし、口をつけ、そのカップを傾けることで口の中にコーヒーが入るわけです。そんな感じで、僕らはいつでもイメージの力を使ってるんです。」 うーーん、解りやすい! これが、現状にだけフォーカスが行ってしまうとコーヒーすら飲めなくなっちゃうんですよね。その現状がというのが「カップを持った」状態だった時、そこしか観ていなかったらコーヒーが口に運ばれることはないわけです。ずっとカップを持ったまんま。。。なんか笑っちゃう でも、過去に囚われてる人ってそんな状態。ずっとカップを持ったままなのと同じように、いつまでも同じ状態にフォーカスして、そこにい続けてる。。自分がそこに居た時には笑えなかったけど、抜け出てみたらかなり笑える そんなのと同様、以前に創造の例として挙げたことのある、スポーツや音楽、絵画や手芸、料理などなど、どれをとっても現状にフォーカスしてるだけじゃ二進も三進もいかなくなっちゃう。 ドレミのドを弾いた時には、そのドはすでに過去のもの。イマココでは、すでにレを弾こうと意図をしてる。ドに留まっていては曲にならない。スキーで、現状でしているターンはすでに過去のもので、そのターンをしている時には次の旗門、さらに次の旗門のターンを創っている。現状のターンに固執していたらゴールできない。 それらの次を「創っている時」がイマココなわけです そして、「イマココ」とそれが生み出した「現状」とのズレが少なければ少ないほど内なる神に近づいていると言っていいのかもしれないなんてことも思いつきました。自我が入る余地がないとズレが少なくなるというかね。逆に考えれば、自我抜きでイメージしたら現実になってあらわれるのが速いはず。。。 イマココにいるって、やっぱり音楽を奏でるような意識の状態なんだと思ったら一番解りやすいかも。。。ボーっとしてたらいい演奏はできないもんね。あとダンスとかも解り易いかな? そんなわけで、「イマココにいる」=「一瞬一瞬を意識的に過ごす」というのは、常に意志をもって創造をしつづけることだったのです |
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